今日も生きていた。ごめんなさい。
朝起きた時に、最初に思うことがこれだ。今日も思った。毎日思ってる。
あー、本当に生きていてごめんなさい。
俺は布団から抜け出し、顔を洗い、服を着替え、太郎に話しかけた。
「おはよう」
太郎は俺の唯一の同居人で、部屋の中を飛び回る1匹のハエだ。数日前に家の中に入ってきてから、ここで暮らし始めた。
俺は大学時代に初めてアルバイトをした時、店長と先輩の横暴さに耐え抜き、大学を卒業した就職先では上司の罵倒に耐える日々が続いた。
就職直後にいつか金を貯めて、さっさと仕事をやらないで暮らそうと心に決め、それから節約と投資の生活を続け、20年が過ぎ、念願の退職を迎えた。
節約のために同僚や会社の飲み会などは一切断り、友達の冠婚葬祭にも一切いかない。
家賃は2万5千円のオンボロアパート。風呂は週に2回。平日はタオルで体を拭き、髪だけを洗う。
飯は朝は納豆に卵ご飯。昼はお手製のおにぎりとネットで安くまとめ買いした魚の缶詰、野菜のサラダ。夜はスーパーの見切りコーナーで買った肉と野菜で適当に蒸し煮にし、しょうゆか味噌で味をつける。
炒めたり焼くとサラダ油が必要になるので、基本的に煮るか茹でるだ。1ヶ月あたりサラダ油の金とガス代のどちらが高いかちゃんと計算していないが、長い間、サラダ油は買っていない。
基本的に調味料は味噌と醤油と味の素。主食は米一択。
YouTubeやテレビを見ると購買欲が刺激されるので、一切見ず、休日は図書館に通い、金を使わないようにした。
そういう生活のおかげで、月に10万円を投資に回せた。
最初は全世界インデックス型の投資信託を買ったが、投資信託は資産が増えている実感が感じられなかったのと資産が増えるスピードが遅いと感じ、高配当株投資をやるようになった。
株を売って損したくないという気持ちが強いためか売ることができず、買ったら持ちっぱなしが基本だ。
日本株とアメリカ株に投資を行い、そのおかげで、年間の配当金300万円を確保できた。
このタイミングで仕事をやめた。
もうこれで、毎日、同じものを食べていると会社の連中から白い目で見られることもなくなり、俺よりも年下の上司に文句を言われることもなくなった。
自由になったのだ。
だが、生活は仕事がなくなっただけだった。
最初は食べ歩きでもしてみようかと思ったが、どの店に行けばいいのかわからない。旅行に行こうにもどこに行けばいいのかわからない。
それに、金は使ったら減ってしまう。
そう思った途端、使うのが怖くなった。
年間の配当金が300万円あるとはいえ、贅沢ができる金額じゃない。
朝食は納豆卵ご飯で5分で終了した。
その後は家の中の掃除だ。
太郎が家の中で暮らし始めるようになってから、太郎が窓から誤って出ていかないように換気はしていない。
壁に止まっている太郎に向かって、
「太郎。今日は晴れてるねー」
太郎が飛んで、違う部屋へと向かったので、俺も追いかけて話を続ける。
「俺は生きていていいんだろうか?俺は価値がないんじゃないか?」
こういう話を太郎にし続け、1時間経った。
このあとは外に出て散歩だ。外に出る時ももちろん、太郎が逃げ出さないように、ドアは必要最小限だけ開いて、体を横にしてさっさとスピード感を意識して出る。
スマホには歩いてポイントが貯まるアプリがインストールされており、毎日1万歩歩く。大体、1時間くらいだから、1時間の暇つぶしができる計算だ。
昼になって、俺は誰もいない公園のブランコでブランブランしていた。
幼児を連れた女が公園に入ってきたが、俺を見てすぐに出ていった。
俺はお前には不審者に見えるのか?俺はお前に何もしていないのに?どういうことなんだ?
虚しさ、悲しさ、憤りが胸からこみ上げる。
……誰かと話がしたい。
だが、誰と話をすればいいんだ?
今まで仕事以外では誰とも話をしてこなかった。友達
物を買わないため物欲を掻き立てないように、テレビも動画も雑誌も観ないように暮らしてきた。人付き合いもしないように生きてきた。
だから、本当に知り合いが一人もいないのだ。
俺は立ち上がって、スーパーへと向かった。
見切りコーナーに行くためだ。
最近、スーパーで試食が再開された。
おばさんがバター風の調味料で肉を焼いていた。
バター……。
そういえば、高いからと長い間、買ったことがなかったな。
そうだ、もう生きている必要ないな。
バターを買おう。
人生最後の贅沢だ。
俺はバターを買って家へと戻った。
玄関を開ける時、太郎が間違って逃げないように細心の注意を払う。唯一、俺の話を聞いてくれる存在がいなくなってはたまらない。
俺はバターを見つめた。
人生最後と決めたからか、家の中がいつもより静かに感じる。隣人が外出しているだけかもしれない。
俺は米200gを茶碗によそい、味の素4振り、鰹節、バター15g、醤油を乗せた。
バターが米に乗っている。黄色く米に染み出していく。
俺は完成した飯を太郎に見せたくて、家の中を探す。
だが、いない。いつもはブンブンとしているのに。
しばらくウロウロとしていたら、洗濯機の上で眠るように死んでいた。
「た……太郎!」
目から涙が溢れ、止まらない。
たった一匹。話を聞いてくれる唯一の存在だったのに。
俺はその場に座り込み、だが、バターと醤油の誘惑には勝てず、もしゃもしゃと食い出した。
うまい。
バターの乳臭い香りとしょうゆ、鰹節なんてうまいんだ。これなら、土だって美味しく食えるに違いない。
約十数年ぶりに脂を使った料理を食べた。脂ってなんて旨いんだ。
感動した。
だが、これが俺の人生最後の飯なんだよな……。
俺はもう決心したんだ。
太郎が先遣隊として俺よりも先に向こうに逝ったから、きっと入口あたりで待っていてくれてるだろう。
太郎を見つめていたら、今までの人生が頭の中にどんどん湧き上がってきた。
就職した会社の人間関係がクソで、定年まで働きたくないと貯蓄に励んだ俺。
高卒より大卒が良いという理由で大学に行き、少ない仕送りを賄うために始めたバイト。そこでも人間関係はクソだった。
高校時代は地元のカードショップに入り浸り、遊戯王をしていた俺。なんだか楽しかった。
中学時代は将棋部で将棋に明け暮れていた。
小学時代は夏休みに親父の田舎で虫取りに明け暮れた。
幼稚園時代も虫を捕まえるのが好きだった。好きな女の子が地面に落ちたセミを気持ち悪いの一言で踏み潰したのが今でも心に残っている。
虫。
捕まえるのって楽しいよな……。
死ぬ前に、もう一度、虫を捕まえに行くのもいいな。
俺はバターを直接かじりながら、明日虫捕りに行くことにした。
太郎を近所の公園に埋葬しながらも、明日のことを考えたらとてもワクワクしてきた。
人生は楽しいのかもしれない。
これは料理研究家リュウジさんのレシピを元にした創作です。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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